☆ 神は存在する! かもしれない ☆
婚約中の友人から電話が入る。
聡明と言う言葉がピッタリの素敵な女性である。
才色兼備と言う言葉では、彼女を形容するには陳腐にすぎる。
彼女に限って、“天は二物を”与えてしまったようだ。
その彼女が、相手の男とケンカをしたと言う。
早くも“犬も食わない”ってヤツか?
だが話を聴くうちに尋常でない様子が伝わってくる。
それがもとで怪我を負い、首にはコルセットをしている。
男同士の“喧嘩”ならば、これは“勲章”と言えなくもない。
しかし、屈強な男が女性にこれだけの怪我を負わせるのは、ケンカとは言わない。
紛れも無く“暴力”以外の何物でもない。
おまけに、先に手を出したのは彼女のほうだ、と宣ったそうである。
何をかいわんやである。
後先の問題ではない。
身体は屈強でも、脳味噌の働きは脆弱らしい。
この“本性”は、後でどう言い訳をしようが、
不治の病である。
ケンカは時として物事の解決の手段に成り得る。
友達、恋人同士のケンカ、夫婦ゲンカ、親子ゲンカ。
それを乗り越えた時、前にも増して理解が深まることは珍しくない。
だが、暴力は、弱者が傷付くだけで、何の解決にもならない。
男として、いや人間として最も恥ずべき行為なのだ。
最近また、猫に対する虐待が報じられている。
人間を信用し、喉を鳴らしながらすり寄ってきたであろう子猫を、
虐待し、命までも奪ってしまう。
常人の理解の及ぶところではない、狂気の沙汰である。
多分、治癒の見込みの無い、重篤な心の病なのだろう。
大部前の出来事だが、
爪をたてた子猫に腹を立て、
この子猫を路上に叩きつけ、不倶にしてしまうと言う事件があった。
曰く、「先に爪をたてたのはネコのほうだ」
この加害者の行為と、
彼女に怪我を負わせた男の行為と、どこが違うのだろう?
猫と違って人間は心も傷付く?
とんでもない、
いわれのない虐待を受けた彼らは、
仮に命をとりとめ、体の傷は癒えたとしても、
その相手、いや人間全てに憎悪を抱き、以後近付こうとしない。
そう、彼らも立派な心を持っているのだ。
ひとつ違うとすれば、この男は、
彼女を護り、幸せにする替わりに屈辱を与えた、
つまり、彼女の人間としての誇りを踏みにじったことだ。
(因みに彼女は四匹のネコを飼いながら、
自費で近所の薄幸なネコ達を保護している)
だが、話を聴きすすむうちに、以外な言葉が返ってきた。
「少し心が揺れているの、お父さんがいい人だし、一度だけ許してあげようかと」
彼女の優しさといえば、それまでだが、
私は、少し声を荒げた。
「なにを馬鹿なことを言っている」
ひとつ間違えば命を落としていたかも知れない怪我を負わせたのは、
本当は、これから生涯、彼女を護っていかなければならない、
そして幸せにしなければならない筈の男なのだ。
心の通わぬ相手の為に、
自分の大切な人生を使うべきでない。
(彼女は数年前に得た病のいきさつで、
絶対に左腕に負傷してはならない。
そこにダメージがなかったことは不幸中の幸いといえる)
以前、“神は存在する!か?”という記事を書いた事を思い出した。
そして今、ひょっとすると、本当に神は存在するのではないかと感じた。
勿論、白いひげを生やし、杖をついた“実像”ではない。
それは、上手く表現できないが、
だれの心の中にもある(居る)、
自然でないことを排除する働きのようなもの。
幸いにも一命を取りとめたこと、
時期が入籍前であること、
を考えると、
彼女を護ろうとする神が相手の男に姿を変えて、
『これが、この男の本性なのだぞ』と彼女に教えてくれたのではないか?
あるいは、口幅ったいようだが、
日々、彼女の幸せを念じている自分の心が、神に通じたのか?
このサインを見逃さなかった者が、
『神の加護』を受けることができるのではないのか?
頭の良い彼女のことである、
よもや、これからの選択を誤るようなことはあるまい。
今回の出来事は、
彼女の心をひと周り大きくしてくれたに違いない。
少し落ち着いたら、
美味い料理と酒で、心の煤払いといくか。