北の幕末悲話!

 
ロシアの南下政策の脅威に備えるため幕府は東北各藩に蝦夷地の警備を命じた。

1856年(時の将軍は13代家定)、仙台藩は北海道白老群に陣屋を設け、この任にあたる。

慶応3年(1867年)春、仙台藩白老陣屋代官として草刈運太郎が着任した。

この年の暮れ、王政復古の大号令が下る。

翌、慶応4年1月鳥羽伏見の戦いが勃発し、以後幕藩体制が瓦解してゆく。

同7月、運太郎は陣屋の責任者として、恭順の意を示し、これを新政府軍に明け渡すべく

礼節をもって対応にあたったが、

函館府から差し遣わされた官軍兵士の横暴な振る舞いを諌めようとして刀傷を受ける。

深手を負った運太郎は数人の部下と共に一里ほど離れた漁師相木林蔵の番屋に逃れた。

しかし傷は癒えず死を覚悟した運太郎は8月25日、前浜に座し、

遠く青葉城の方角を仰ぎ、礼拝した後自刃して果てた。

享年49歳。

墓碑は国道36号線沿いの白老町社台小学校校庭に現存する。

 歴史は勝者の記録であると言われる。

しかし真摯に歴史と向き合う時、立場は違えど信義に殉じた、

或いは不条理に散った多くの敗者の記録も心に留め置かねばならない。


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