銅像になった幽霊

 幽霊の画といえば円山応挙が有名であるが、

おそらく日本で唯一ではないだろうか、幽霊の銅像が建つ町がある。

 寛政11年(1799年)11代将軍徳川斉昭の治世、この頃ロシア艦隊が蝦夷地近海に出没するようになり、

武州多摩八王子千人同心がその警備のため、北海道の白糠、

そして苫小牧勇払に夫々50人を引き連れ赴いた。

同心組頭河西祐助も妻の梅を伴い勇払に入る。

因みにこの梅が女性の和人としては初めての入植者といわれている。

梅は夫を支えて一生懸命に働いた。

しかし火山灰の土地に農作物は育たず、手持ちの野菜はすぐに底をついた。

さらに冬の寒さは関東の武州と比べ想像を絶する。

やがて病人が続出したが、手当もできぬまま、その死を看取るほかに術はなかった。

そうしたなかで梅は身籠り赤児を生んだ、女の子であった。

だが母親の食べ物が満足に無いため乳がでない。

赤児は、でない乳房をくわえて力無く泣くだけであった。

梅はそれを見てどうすることもできない。

夫の祐助は仕事に追われ留守がちである。

梅も病を得、その体は日に日に衰弱していった。

ついに梅は愛しい赤児を胸に抱き「この子に、お乳を…」と言いながら

二度と故郷の土を踏むことなく息を引き取った。25歳の若さであった。

 それからしばらくすると、夜になると近在の家の戸を叩いて、

「お乳を恵んで下さい」と言う声がするようになった。

こんな時分に、と戸を開けると誰もおらず、

闇にまぎれて赤児を抱いた女が墓地の方へ消えていったという噂がたつようになった。

人々は“夜泣き梅さん”と呼び、その霊を悼んだ。

愛し子を抱き、亡霊となった“夜泣き梅さん”の銅像

北海道苫小牧の市民会館横に建っている。

北の地に伝わる悲話である。